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衰亡に到らないための七つの法

増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫所収の「大いなる死」より

  

 増谷文雄編訳『阿含経典3』(ちくま学芸文庫)所収の仏典「大いなる死」に、「衰亡に到らないための七つの法」の教えがあります。これを学んでみたいと思います。

  

  

アジャセ王の質問

  

 釈尊が、舎衛城の霊鷲山にいらっしゃったとき、マガダ国のアジャセ王の使いとして一人の大臣が訪れました。大臣は「アジャセ王はヴァッジ国を征服したいと思っています」と釈尊に申し上げます。暗に、釈尊の意見を求めているのです。

 釈尊が政治に関して意見を述べることはありません。ただ、教えを説くだけです。教えを実践するかどうかは、教えを聞いた本人に任されています。

 このときも、釈尊は大臣に対しては何も言わず、お傍に仕えていた阿難に問いかけました。問いかけは七つの項目に渡りました。それは「衰亡に到らないための七つの法を、実践しているか」というものでした。釈迦牟尼世尊は。かつて、ヴァッジの人々に、この教えを説いたことがあるのです。

 阿難は、「ヴァッジ国の人びとは、衰亡に到らないための七つの法を実践していると聞いています」とお答えします。釈尊は、「この七つの法を怠らず実践しているかぎりは、ヴァッジ国は滅びることはなく、繁栄が約束されるであろう」とおっしゃいます。

 これを聞いた大臣は、急ぎ城に帰りました。アジャセ王に、このことを伝えるためでした。アジャセ王は、おそらく、ヴァッジの征服をあきらめたことでありましょう。

  

 経営コンサルタントを営む私はに、「衰亡に到らざる七つの法」は、「会社が倒産しないための七つの実践」にほかならないと受け取れました。

 経文は、古代インドの事情の中で説かれたものですから、当時の世情を反映した話題や表現になっていますが、これを現代の事情に合わせて考えれば、さまざまなことが分かってきます。そうした姿勢で、この教えを学んでみたいと思います。

  

  

第一の法 しばしば会合する

  

 釈尊の第一の質問は、「ヴァッジの人々はしばしば会合し、その集まりは多いと聞いているであろうか」というものでした。阿難は、「しばしば会合していると聞いています」と答えました。

 「会合」とは、話し合いを行うということでありましょう。話し合いを通して心を合わせ、みんなが同じベクトルで行動するというようなことでありましょう。

 「その集まりは多い」とは、さまざまな分野、さまざまな階層の人々が、必要に応じて集まり、話し合い、ものごとを進めていくということであろうと思います。

 例えば、政治のことなら政治に関係する人々が集まって話し合う、仕事のことなら仕事に関係する人々が集まって話し合う、教育のことなら教育に関係する人々が集まって話し合うというようなことだと考えられます。

 これらの話し合いは、形ばかりの空虚なものではなく、中身があり、実りを生むものでなければなりません。釈尊の教えを受けていたヴァッジの人々は、おそらく、八つの聖道をベースにした話し合いをしていたのでありましょう。

 現代の会社でも、こうした話し合いを重ねているようなら、いかなる困難も乗り越えられましょうし、これからの発展が約束されるのではないでしょうか。

  

  

第二の法 なすべきことをなす

  

 釈尊の第二の質問は、「ヴァッジの人々が、ともに集まり、ともに起ち、ともにヴァッジの人々のなすべきことをなすと聞いているであろうか」というものでした。阿難は、「その通りに行っていると聞いています」と答えました。

 「ともに集まり、ともに起ち」とは、ものごとを行うときに役割を担う人びとが、自主的に集まって、協力体制の中で、主体的に行動することを言っているのでありましょう。

 「ともにヴァッジの人々のなすべきことをなす」とは、同じ目的に向かって、各人が自分の役割を果たすことを言っているのだと思います。

 現代の会社でも、このことは重要だと思います。

 会社の目的、仕事の目標を理解し、自分の役割を自覚して、自主的・主体的に他の人々と協力しながら、自分の役割を果たしていくのです。

 このとき留意したいことは、周囲の人々がその人の役割を果たしやすいように、自分の役割を果たすということです。つまり、自分の役割を果たしながら、全体が目的・目標に向かって進んでいけるように振る舞うというこです。このためには、思いやりの心を養い、リーダーシップを身につけることが求められるでありましょう。

 このような社員が多ければ多いほど、会社の業績は向上し、着実に発展するでありましょう。

  

  

第三の法 定めをまもる

  

 釈尊の第三の質問は、「ヴァッジの人々が、かつて定められたことのないことは定めず、定めれらたことは破らず、よく往昔に定められたヴァッジの法にしたがって行動すると聞いているであろうか」というものでした。阿難は、「往昔からの定めに従って行動していると聞いています」と答えました。

 「往昔に定められたヴァッジの法」とは、「昔も今も変わらない普遍的な法」ということだと思います。これは、基本的な行動規範を言っているのでありましょう。

 多くの人びとがあつまって活動し生活するときには、秩序を保つためにも、気持ちよくお付き合いをするためにも、正しい行動規範が必要となります。

 なかでも、普遍性のある行動規範は、ずっと以前から、変わりなく伝えられ、護られて、人びとを正しい行動に方向づけてきたに違いありません。これを、「往昔に定められたヴァッジの法にしたがって行動する」と言っているのでありましょう。

 「往昔からの定め」は、現代の会社では、経営理念に当たります。経営理念は、人間性・普遍性・社会性・現実性を備えていることが求められます。このような経営理念を行動規範として経営者から社員まで、こぞって実践していけば、全社一丸が実現して、業績向上に大きな力を発揮するに違いありません。まさしく、繁栄の道しるべとなるでありましょう。

  

  

第四の法 古老を尊敬する

  

 釈尊の第四の質問は、「ヴァッジの人々が、かのヴァッジの古老を尊敬し、尊重し、敬重し、供養し、そして、彼らの言を聞くべきであると思っていると聞いているであろうか」というものでした。阿難は、「古老を尊敬していると聞いています」と答えました。

 古老の重要性はどこから生じるのでしょうか。

 古老といえども、はじめから古老だったわけではありません。この国に生まれ、育ち、社会に出て活動し、結婚し、子をなし、育て、やがて古老と言われるような年齢に到達したのです。

 現在、この国を支えている壮年・青年も、古老に育てられたのであり、古老が作り上げた国を引き継いでいるのです。現在の繁栄を築いてきたというだけでも、古老は「尊敬・尊重・敬重」するべき存在であると言えます。

 また、古老は、現在の国を支える現役ではないにしても、これまで国を支えてきた経験があり、経験によって培われた智慧があります。このような経験、このような智慧には、現在の壮年・青年たちが耳を傾けるべきものがあるにちがいありません。これは、社会の無形財産というべきものでありましょう。

 現代の会社の多くでは、古老となった社員は、定年退職して会社と無縁の存在となることが多いようです。このため、古老の持つ経験や智慧を会社の無形財産とする道が閉ざされているという傾向は、いかにももったいないと思えて仕方がありません。

  

  

第五の法 婦女子に暴力をはたらかない

  

 釈尊の第五の質問は、「ヴァッジの人々が、その良家の婦女や子供を、暴力をもって連れ出したり、抑留したりすることはないと聞いているだろうか」というものでした。阿難は、「そのようなことはしていないと聞いています」と答えました。

 「良家の婦女や子供を、暴力をもって連れ出したり、抑留したりする」となると、これは犯罪です。ところによっては、実際にこんなこともあったのでありましょう。現代でも、戦地などで、こうした悲惨な出来事が起きていると報道されています。

 これは、何らかの力を持つものが、その力を自分の欲望を満たすために使って、力の弱い人々を不幸に陥れる事例だと捉えることができます。

 そのように考えれば、形こそ違え、現代の会社にも、これに類した事例が蔓延しています。それは、ハラスメントです。ハラスメントは、何らかの力のある人が、力の弱い人に、さまざまな形で精神的、肉体的、社会的な苦痛を与える行為です。

 ハラスメントのある会社は、倫理的レベルが低い会社でありましょう。ハラスメントをするような人は、仕事に打ち込んでいるとは思えませんし、良い仕事をするとも思えません。ハラスメントをされる人は、仕事に打ち込めるはずがありません。こうして、業務効率も低い会社になってしまいます。こんな会社が発展するとは、私には到底考えられません。

  

  

第六の法 廟に供養する

  

 釈尊の第六の質問は、「ヴァッジの人々が、城の内外のヴァッジの廟を敬い、尊び、崇め、大事にして、以前から与えられ以前からなされていた法にかなえる供養を廃することはないと聞いているであろうか」というものでした。阿難は、「そのように聞いています」と答えました。

 廟(びょう)とは、先祖の墓です。廟に供養するとは、先祖供養を行なうことです。これは、先祖を大事にし、感謝することを止めないということです。

 現代風に言えば、私たちは先祖からのDNAを受け継いで今日あるのですから、自分の中に先祖が生きているということになります。自分に生命を与えてくださり、自分の中で生き続けておられる先祖を大切にすることは、なかんずく、自分を大切にすることにほかなりません。また、自分を大切に思うならば、おのずから先祖を大切に思う気持ちがいや増してくるに違いありません。

 亡くなった人ばかりが先祖なのではありません。両親・祖父母・曾祖父母も健在であれば、皆、生きているご先祖です。もっと深く考えれば、血筋の人々だけが先祖なのではありません。当時の社会が先祖を生かしてくださったから、先祖が私たち子孫を残せたのです。したがって、先祖を思うときには、先祖を生かしてくださった当時の社会のことも思うべきでありましょう。

 「ヴァッジの廟」には、そのような「意味の深い先祖」が祀られているのではないでしょうか。このような「意味の深い先祖」に手を合わせ感謝することを通して、現在の自分を見つめ、自分のDNAを引き継いでくれる子孫を思うことができるにちがいありません。

  

  

第七の法 聖者に供養する

  

 釈尊の第七の質問は、「ヴァッジの人々が、聖者に対して、法にかなえる保護と防衛と支持とをよく供すると聞いているであろうか。また、聖者が、将来、その領土に入りたいと思い、やがて到着した時には、その領内において、安らかに住むことができるときいているであろうか」というものでした。阿難は、「そのように聞いています」と答えました。

 聖者とは、人生指導者です。人が正しく生きていくためには、正しい道を示してくれる人生指導者が必要なのです。そのような人生指導者を大切に思う人々なら、誤り少ない日々を送り、幸福への道を歩むことができるでしょう。

 人生指導者が必要なわけは、稿を改めて申し上げたいと思います。

  

  

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