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四念処

増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫所収の「大いなる死」より

  

自帰依・法帰依の実践

  

 旅の途中、ヴェールヴァナ村で雨安居に入られた釈迦牟尼世尊は、そこで重い病に罹られましたが、やがて恢復なさいました。そのとき、ただオロオロするしかなかったアーナンダをたしなめながら自帰依・法帰依の教えをお説きになりました。

 それに続いて、次のように語りかけられました。

  

 「ではアーナンダよ、比丘は、どのようにして、自己を洲とし、自己を依拠として他人を依拠とすることなく、法を洲とし、法を依拠として、他を依拠とすることなく住することを得るであろうか」(増谷文雄編訳『阿含経典』ちくま学芸文庫、p.368)

  

 ここに「住する」とあります。ここでは、「自帰依・法帰依の教えがすっかり身について、日常、当たり前のように実践している」というような意味です。いちいち考えなくても、自然に自帰依・法帰依の教えを実践しているのです。

 そのような境地に到るには、どうすればいいのか、釈迦牟尼世尊はそのことについてお説きになるのです。

  

四念処

  

 「アーナンダよ、ここに比丘があり、彼は、我が身において、熱心に、正念に、正知にしてその身を観じ、貪欲より起るこの世の憂いを調伏して住する」(増谷文雄編訳『阿含経典』ちくま学芸文庫、p.368)

  

 これが「身念処」です。以下、「身」のところが、「受」、「心」、「法」と変わるだけで、同じ経文が繰り返されます。身念処・受念処・心念処・法念処と、念処が四回繰り返されますので、「四念処」と呼ばれています。

  

 仏教の辞典や参考書では、「四念処」は、次のように説明されます。

  

 「四念処とは、この身は不浄なり、受は苦なり、心は無常なり、法は無我なりと観ずること」

  

 これは、出家修行者における瞑想行でありましょう。僧侶はここから修行に入り、学者はここから研究に入るのかもしれません。しかし、市井に生きる私たちには、どう受け止め、どう実践すればいいのか分かりません。

 そこで今回はこの説明を棚上げして、在家における実務的・日常的な立場から、四念処を考察してみたいと思います。

  

観 察

  

 経文に、「アーナンダよ、ここに比丘があり、彼は、我が身において、熱心に、正念に、正知にしてその身を観じ、貪欲より起るこの世の憂いを調伏して住する」とあります。

 「観じる」とは、「ものごとのありのままを、正しく観察する」ということです。ここでは、自分のありのままを正しく観察することを言っています。

 「熱心に、正念に、正知に」とは、先入観を持たず、色眼鏡をかけず、澄み切った理性で、なにごとも見逃さず、誤りなく、ありのままを観察するという、厳しい姿勢を表していると思います。

  

 「知」とは「ものごとを認識判断すること」で、これは理性のはたらきです。「正知」は、理性が正しくはたらくことでありましょう。

 ここでは、自分に対する観察であっても、感情的に行なうものではなく、理性的に行なうものであることを、言っているのだと思います。

  

「念処」と「四諦の法門」

  

 経文に、「貪欲より起るこの世の憂いを調伏して住する」とあります。

 これは、四諦の法門をベースにして説かれていると、私には見えます。

  

◇苦諦

 「この世の憂い」とは、自分が現実に味わうさまざまな苦悩でありましょう。

 自分をよくよく観察することによって、自分が現実に味わっている苦悩を明らかにするのです。これは、四諦の法門の「苦諦」に当たります。

  

◇集諦

 「貪欲より起る」とは、苦悩は貪欲によって生じるということです。

 自分をよくよく観察することによって、自分の苦悩は、自分にある貪欲によって生じていることを明らかにするのです。

 これは、四諦の法門の「集諦」に当たります。

  

◇滅諦・道諦

 「調伏する」とは、貪欲を滅し尽くし、これによって苦悩を滅し尽くすことです。これは、四諦の法門の「滅諦」と「道諦」を意味していると思います。

  

 まず、自分をよくよく観察することによって、自分の持つ貪欲を滅すれば自分の苦悩が滅することを、はっきりと理解するのです。

 これは、四諦の法門の「滅諦」に当たります。

  

 次に、自分をよくよく観察することによって、自分の貪欲を滅するには中道・八正道を実践すればよいことを、はっきりと理解するのです。

 これは、四諦の法門の「道諦」に当たります。

 「道諦」で明らかになった修行の道を実際に行なえば、貪欲が現実に滅し、苦悩が現実に滅するのです。

  

四念処の考察

  

 「念処」とは、真理にもとづいて自分で自分を観察し、真理から外れているところがあったら、自分で自分を真理に合うように治していく、そういう修行を説いていると見ることができます。これが、自帰依・法帰依の修行に他ならないのです。

 「念処」の骨格となっている四諦の法門は、真理から外れている自分を、真理に戻す教えですから、まさしく、法帰依のための教えであると言っていいと思います。

  

◇身念処

 身念処における「身」は、身業(身体的行為)と口業(言語的行為)であると私は考えています。ですから、身念処では、自分の身業と口業を観察するのです。

 自分の身体的行為(身業)が、八正道における正業になっているか、自分の言語的行為(口業)が、八正道における正語になっているかを観察します。なっていなければ、正しいありかたに戻す努力をします。

  

◇受念処

 受念処における「受」は、ものごとを感じ取って認識する心の作用です。自分はものごとをどのように感じ取り、どのように認識しているかを、ありのままに観察するのです。

 自分を観察して、ものごとを、ありのままに感じ取っていない、ありのままに認識していないと分かったら、治していかなければなりません。

 誤った感じ取り方、認識の仕方をそのままにしておくと、いつしか自分を、不幸へと向かわせてしまいます。

  

◇心念処

 心念処における「心」は、心のはたらきです。

 心念処では、自分の心に貪欲・瞋恚・愚痴がはたらいているかどうかを観察します。

 貪欲・瞋恚・愚痴がはたらいているときは、自分本位の行動を取りがちであり、そのため自分を不幸に追い込んでしまいます。

 そこで、貪欲・瞋恚・愚痴を滅する修行に入ることとなります、

  

◇法念処

 「法」にはいろいろな意味がありますが、法念処における「法」は、「現象」を意味していると思います。

 法念処では、自分と他人との人間関係の中で、自分が、自分・相手・世間の幸せのために役に立つはたらきをしているかどうかを、観察したいと思います。

 自分・相手・世間を不幸に向かわせるような人間関係になっているなら、これを改める努力に入ることとなります。

  

自帰依・法帰依の功徳

  

 釈迦牟尼世尊は、経文を、次のように締めくくられました。

  

 「アーナンダよ、このようにして、比丘は、自己を洲とし、自己を依拠として、他人を依拠とすることなく、法を洲とし、法を依拠として、他を依拠とすることなくして住するのである。

 アーナンダよ、まことに、今においても、また、わが亡きのちにおいても、自己を洲とし、自己を依拠として、他人を依拠とすることなく、法を洲とし、法を依拠として、他を依拠とすることなくして住するであろう者は、アーナンダよ、かかる者は、学ぶことを欲するわが比丘のなかにおいて、その最高処にあるであろう」(増谷文雄編訳『阿含経典』ちくま学芸文庫、p.368〜369)

  

 「今においても」とは、「釈迦牟尼世尊が、ご在世中においても」ということで、釈迦牟尼世尊のもとで修行する人々を指していると思います。

 「わが亡きのちにおいても」とは、「釈迦牟尼世尊が、入滅なさった後においても」ということで、現在の私たちは、この中に入ると思います。

 釈迦牟尼世尊がご在世のときでも、ご入滅の後でも、自帰依・法帰依を実践する人は、人間としてもっとも高い境地にあると、釈迦牟尼世尊はおっしゃっておられるのです。

  

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