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宗教ではない仏教 ビジネス縁起観
仏教には「神」がない
宗教には普遍性がなかった
私たちには認識できない神さまがいる。
神の言葉を聞いたとか、神の言葉が聞こえるなどの特別な人がいる。
「神」と「神とつながる特別な人」を信じて崇める信仰者がいる。
宗教というものは、どうも、そういう構造をしているように、私には見えます。
しかも、神とつながる特別な人の説く教えは、他では聞けない独特の内容を持っているというのが、その宗教の自慢になっているようです。
かつて、いくつかの宗教について勉強した私は、こんなことを考えるようになりました。「そのような神は、信じる人には存在するけれど、そうでない人には存在しない」
ある人には存在するが、ある人には存在しないとすれば、そこには普遍性がありません。少なくとも、私が勉強した限りでは、宗教には普遍性がありませんでした。
神の存在が成り立たない
私は父母の影響を受けて、若いころから仏教を勉強していました。
そこで分かったことは、「仏教には神がない」ということでした。
「ブッダ」は、神ではありません。凡夫が修行して悟りを開き、ブッダになるのです。ブッダは「優れた人間」です。神ではありません。
仏教の根幹は「縁起の法」です。縁起の法で検討すると、原理的に絶対的な神の存在が、成り立たないことがわかりました。
仏教に登場する神々
仏教にも神々が登場します。それも、数えきれないほど多くの神々です。ところが、その神々は、いずれも他の宗教の神々でした。
仏教は、事実をそのまま認めます。神の存在は否定しますが、「神が存在していると信じて崇めている人が居る」という事実はそのまま認めます。
インドには、数多くの宗教があって神も大勢います。その神々を信じる人々も大勢います。
仏教が広まった先にも、多くの宗教があって多くの神々がいます。その神々を信じ崇める人々も大勢います。
そうした事実を認め、それらの神々を仏教に取り込んだために、数えきれないほどの神々が、仏教に登場するようになったのです。
救いの手がかり
なぜ、そういうことをしたのかと言いますと、彼らの信じる神々を通して、彼らを救うためでした。
彼らの信じる神々を通して教えを説くことによって、彼らは教えを受容し、救われの道に入ることができるからです。
こうした神々は、人々の空想が生み出した架空の神々です。そのため、内容はそれぞれの人の心の中で作られることになります。
このとき、あなたの神さまは、こういう教えを説いていますよと、内容を与えれば、人々はそれを喜んで受け取るのです。
仏教の目的は、人々の迷いを払拭して苦悩から脱出させ、幸福への道を歩ませるところにあるわけですから、彼らの信じる神々に、教えを語らせても良いわけです。
いわば、彼らの信じる神々を、彼らを救う手がかりとして活用するわけです。
救われの道
ほかの宗教の説く神々を多数受け入れている仏教ですが、仏教自身が説いた神は、存在しません。
絶対の存在である神とか、人間が認識することはできないけれど存在している神などは、縁起の法が存在を否定します。
自分が苦悩しているのは、自分で苦悩の原因を作ったからである。
苦悩から脱出したかったら、自分の中にある苦悩の原因を無くせばいいのだ。
苦悩の原因を無くす道は「八正道」であり、「八正道」は、苦悩をなくすだけでなく、幸せに向かう道でもある。
仏教は、そう説いているだけで、あとは、本人に任せていると、私には受け取れるのです。
仏教は宗教ではない
そんなこんなで、いわゆる宗教と仏教の間には、大きな違いがあることを認識せざるを得ません。
仏教は、宗教の構造をしていないことが分かります。
仏教は、特別な内容を持っていません。
仏教は他の宗教と対立しません。
やはり、仏教は宗教ではないなと思ってしまいます。