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四つの大いなる指示

増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫所収の「大いなる死」より

  

教えを記憶する

  

 ボーガ城市のアーナンダ廟に入られた釈迦牟尼世尊は、修行者たちに話しかけられました。

 「『比丘たちよ、わたしは、四つの大いなる指示を説こうと思う。それを聞いて、よく記憶するがよろしい。では、説こう』

 『かしこまりました。世尊よ』
と、比丘たちは賛同した。世尊はかように仰せられた」(増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫、p.407)

  

 釈迦牟尼世尊のお説法の出だしとしては、かなり異色です。「指示するから、記憶せよ」というのは、これまでに私が学んだ限りでは、初めてのお言葉です。たいていは「聞いて、よく考えるがよろしい」とおっしゃるからです。

 釈迦牟尼世尊は、ご自身のご入滅が近いことを考えて、記憶せよ、忘れるなと、念押しをしておきたかったのかもしれません。

  

 記憶とは「覚える、保持する、思い出す」の三つの要素からなっています。必要なときに思い出すから、記憶といえるのです。

 肝心なときに釈迦牟尼世尊の教えを思い出すということは、釈迦牟尼世尊からご指導を受けながら行動できるということになりますから、こんなに心強いことはありません。

 教えを思い出すまでもなく、自然に釈迦牟尼世尊の教えの通りの行動ができる自分になっていることが理想ですが、その境地に到達するまでは、教えを思い出しながら行動することが大事だと思います。

  

第一の指示

  

 釈迦牟尼世尊は、「第一の大いなる指示」をお説きになります。

  

 「比丘たちよ、ここに比丘があって、かようにいうとする。〈友よ、わたしは、これを世尊より、面前にて聞き、面前にて受けた。これは法である。これは戒である。これは師の教えである〉と」(同)

  

 ある修行者が、釈迦牟尼世尊から教えていただいたと称して教えを説いたとします。このときの対応について、釈迦牟尼世尊は、次のようにお説きになります。

  

 「比丘たちよ、その比丘の説くところは、歓喜すべからず、非難すべからず。歓喜せず、非難せず、その辞句をよく理解して、経に照合し、律に参照するがよい」(同)

  

 「これは釈迦牟尼世尊から直接伺った教えです」と伝えられても、聞く側は、これを鵜呑みにして歓喜してはならないというのです。逆に、私は、そんな教えは聞いたことが無いなどと非難してもならないのです。

 では、どうするかと言えば、聞いたその言葉をよく理解するのです。

 その上で、経に照合し、律に参照するのです。

 「経」というのは「釈迦牟尼世尊が説かれたことが確かな教え」でありましょう。「律」というのは「釈迦牟尼世尊が説かれたことが確かな実践道」でありましょう。

  

 「そして、もしそれらを経に照合し、律に参照して、経にも合せず、律にも一致せざるときは、そこにおいて断定するがよい。〈これは確かにかの世尊の言にはあらずして、この比丘によって誤り受けられたものである〉と。かくて、比丘たちよ、これを捨てるがよい」(同)

  

 その言葉が、教えにも合わないし、律にも一致しないのならば、「これは釈迦牟尼世尊のお言葉ではない。この修行者が、誤って受け取ってしまったのだろう」と断定して、捨てなさいとおっしゃいます。

  

 「だが、もしそれらを、経に照合し、律に参照して、経にも合し、律にも一致したならば、そこにおいて断定するがよい。〈これは確かにかの世尊の言であって、この比丘によって善く受けられたものである〉と」(同)

  

 その言葉が教えにも合い、律にも一致したなら、「これは確かに釈迦牟尼世尊の教えであり、この修行者が正しく受けたのである」と断定しなさいとおっしゃいます。

 そして、次のように続けられました。

  

 「比丘たちよ、この第一の大いなる指示を受持するがよい」(同)

  

 この教えは実に大事です。しっかり受け止めて、実行してくださいと、念押しなさいました。

  

四つの指示

  

 続いて、第二、第三、第四の指示が説かれます。ほぼ、同じ内容です。異なるのは、比丘が教えを聞いた相手です。四つの指示を併記します。

  

第一の指示

 「友よ、わたしは、これを世尊より、面前にて聞き、面前にて受けた。これは法である。これは戒である。これは師の教えである」(同書、p.408)

  

第二の指示

 「実は、これこれのところに、長老を持ち、多聞の宿老を持つ僧伽があり、その僧伽において、わたしは、これをその面前にて聞き、その面前にて受けた。これは法である。これは戒である。これは師の教えである」(同)

  

第三の指示

 「実は、これこれのところに、多聞にして、阿含を伝承し、法を持し、律を持し、論を持せる多くの長老比丘が住している。それらの長老たちより、わたしは、これをその面前にて聞き、その面前にて受けた。これは法である。これは戒である。これは師の教えである」(同)

  

第四の指示

 「実は、これこれのところに、多聞にして、阿含を伝承し、法を持し、律を持し、論を持せる一人の長老比丘がいる。その長老より、わたしは、これをその面前にて聞き、その面前にて受けた。これは法である。これは戒である。これは師の教えである」(同)

  

 これを整理すると、次のようになります。

比丘が教えを聞いたとする相手
第一の指示 世尊 釈迦牟尼世尊
第二の指示 長老を持ち、多聞の宿老を持つ僧伽 権威者
第三の指示 多聞にして、阿含を伝承し、法を持し、律を持し、論を持せる多くの長老比丘
第四の指示 多聞にして、阿含を伝承し、法を持し、律を持し、論を持せる一人の長老比丘

  

 いずれの場合も、対応の順序が、次のように説かれています。

  1. 歓喜もせず、非難もせずに、辞句を聞きます。
  2. その辞句をよく理解します。
  3. 釈迦牟尼世尊がお説きになったことが確かな教え(経)に照合します。
  4. 釈迦牟尼世尊が説かれたことが確かな実践道(律)に参照します。
  5. 経にも合っていない、律にも一致していないなら、捨てます。
    経にも合っている、律にも一致しているなら、受持します。

 いかなる権威者から聞いた教えでも、よく理解したうえで、その内容を自分で確かめて、捨てるか、受持するかを決めるのです。

  

大いなる指示

  

 釈迦牟尼世尊は、第一から第四の指示を述べられてから、次のように締めくくられました。

  

 「比丘たちよ、この四つの大いなる指示を受持するのがよいというのである」(同書、p.410)

  

 「大いなる指示」とありますから、これら四つの指示は、根本的な教えであると思われます。

 釈迦牟尼世尊は、ご自分で教えを説かれるときでも、弟子たちに「聞いて、よく考えなさい」とおっしゃいます。釈迦牟尼世尊から直接お伺いした教えでさえ、鵜呑みにしてはいけないのです。ましてや、人から伝え聞いた教えを鵜呑みにして良いわけがありません。

  

 伝えられた教えをよく理解した上で、これまでに学んできた釈迦牟尼世尊の教えと合っているか、実践の道と合っているか、自分の目で確かめることが欠かせないのです。その上で、これは釈迦牟尼世尊の教えであると確信できた教えだけを受け取り、そうでないものは捨てるのです。

  

 釈迦牟尼世尊が、このようにおっしゃるのは、間違った教えを信じてしまったら、苦悩を解決するどころか、ますます苦悩を増大してしまうからでありましょう。幸せへの道と信じながら、不幸への道を歩んでしまうとしたら、こんなに恐ろしいことはありません。

  

 釈迦牟尼世尊が説かれる修行道に「七覚支(しちかくし)」がありますが、そのひとつが「択法覚支(ちゃくほうかくし)」です。これは、「法(教え)の真偽をよく確かめて、正しい教えを選び取る」という修行道です。

 学んだ教えは、自分の責任でよくよく吟味し、正しい教えを選んで、正しく実践することを心がけたいものだと思います。

  

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