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梵行の永続・久住

増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫所収の「大いなる死」より

  

釈迦牟尼世尊の説法

  

 釈迦牟尼世尊は、最後の旅の途上、ヴェーサーリのマハーヴァナ(大林)のクータガーラ・サーラー(重閣講堂)に赴かれました。

 そこで、釈迦牟尼世尊は、アーナンダに、「ヴェーサーリ附近にいる比丘たちを、みんな講堂に集めるがよい」とおっしゃいました。

 アーナンダの知らせで集まった比丘たちを前に、釈迦牟尼世尊は、教えをお説きになりました。

  

 「それでは、比丘たちよ、わたしは法をさとって、汝らに示したのである」(増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫、p.399)

  

 釈迦牟尼世尊は、「わたしは法をさとって、汝らに示した」とあります。

 釈迦牟尼世尊は、29歳で出家し、35歳で正覚を得てブッダとなられました。

 「わたしは法をさとった」という自覚を得たゴータマ・ブッダは、世の人々に法を示し伝える事業に踏み出されました。

  

 「汝らはそれを、よく理解し、実践し、修習して、ひろく宣布するがよい」(同書、p.399)

  

 釈迦牟尼世尊は、比丘たちに二つのことをおっしゃいました。

 一つは、「法をよく理解し、実践し、修習せよ」ということで、これは自行です。

 もうひとつは、「ひろく宣布せよ」ということで、これは化他行です。

 大乗仏教で言われる「自行化他」の教えを、ご入滅を前にした釈迦牟尼世尊がお説きになっておられます。

  

  

梵行を永続せしめる

  

 釈迦牟尼世尊はお説きになります。

  

 「それは、梵行をして永続せしめ、久住せしめるためであって、それが、とりもなおさず、衆生の利益のため、衆生の幸福のため、世間の哀愍のため、人天の利益のため、幸福のためなのである」(同書、p.399)

  

  

 「梵行」は「清らかな行い」で、ここでは「法を実践する」ことです。

 「久住」は、「永久に存在する」ということです。

 そこで、「梵行をして永続せしめ、久住せしめる」とは、「法を実践する人が、これからずっと絶えることなく、永久に存在し続けるようにする」ということです。

  

 ここで、永続し、久住せしめるのは、「教え」ではなくて、「教えの実践」であるところに留意すべきでありましょう。

 教えがあっても、だれも実践しなければ、何も生み出しません。

 教えを実践する人がいれば、「衆生の利益のため、衆生の幸福のため、世間の哀愍のため、人天の利益のため、幸福のため」になります。

 経文「大いなる死」が、徹頭徹尾、法の実践を勧めているのは、そのためであろうと思われます。

  

 「釈迦牟尼世尊の教えを永続させる活動」は、寺院や学問の世界などで行なわれています。しかし、教えを永続させるだけでは、釈迦牟尼世尊の教えの真価は発揮されません。

 「釈迦牟尼世尊の教えを実践する活動」も、見ることができます。釈迦牟尼世尊の教えの真価は、教えの実践によって発揮されます。

 「釈迦牟尼世尊の教えを実践する活動」が途絶えないためには、「釈迦牟尼世尊の教えの実践を永続させる活動」が必要です。これが、なかなか難しいことは、私も痛感しているところです。

  

  

梵行を永続させるには

  

 釈迦牟尼世尊の教えの実践を永続させるためにはどうしたらいいのか。

 釈迦牟尼世尊は、そのことについて、次のようにお説きになります。

  

「それは、つまるところ、四念処、四精進、四神足、五根、五力、七覚支、八正道がそれである。比丘たちよ、わたしは、その法をさとって説いたのである」(同、p.400)

  

四念処 身念処・受念処・心念処・法念処
四精進 未生の悪の不生のための努力
已生の悪の断滅のための努力
未生の善の生起のための努力
已生の善の住立のための努力
四神足 欲如意足・精進如意足・心如意足・観如意足
五根 信根・精進根・念根・定根・慧根
五力 信力・精進力・念力・定力・慧力
七覚支 念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支
八正道 正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定

  

 これらの数字を足しますと三十七になります。これらを、三十七道品(さんじゅうしちどうほん)と言います。釈迦牟尼世尊は、八正道を中心とした数々の修行の道を実践する人が、この地上に絶えることなく永久に存在し続けることを願っておられるのです。

  

 釈迦牟尼世尊は、重ねて、おっしゃいます。

 「汝らはそれを、よく理解し、実践し、修習して、ひろく宣布するがよい。それは、梵行をして永続せしめ、久住せしめるためであって、それが、とりもなおさず、衆生の利益のため、衆生の幸福のため、世間の哀愍のため、人天の利益のため、幸福のためなのである」(同、p.400)

  

 釈迦牟尼世尊の教えの実践を永続させる道は、それを願う自分が、次のように実践することです。

  

  教えを自ら学び、理解する

  教えを自ら実践する

  教えを修習する(教えの学びと実践を繰り返す)

  教えを広く宣布する(教えを他の人々に伝える)

  

 これを行なう人が増えれば増えるほど、教えの実践は永続します。それによって、実践した人はもちろん幸せになりますが、周囲の人々も影響をうけて、ある程度幸せになることがでます。

 逆に、これを行なう人がいなくなれば、教えの実践はそこで途絶えます。それによって、迷いと苦しみの生活・人生が、永続することになってしまうのです。

  

  

真の供養

  

 釈迦牟尼世尊は、クシナーラーのマッラ族のウパヴァッタナにあるサーラ樹の林に入りました。

 釈迦牟尼世尊は、アーナンダに、サーラの双樹の間に床を敷かせて横になりました。

 すると、サーラの双樹は季節ではないのに花を開き、満開となりました。その花びらが横になっている釈迦牟尼世尊にふりそそぎました。

 また、天のマンダーラ(曼荼羅)の花が、虚空から降ってきて、釈迦牟尼世尊に降り注ぎました。

 また、天のチャンダナ(栴檀)の粉末が、空から降ってきて、釈迦牟尼世尊に降り注ぎました。

 そして、天の鐃鉢(浪註:にょうはち、シンバルに似た打楽器)が虚空に鳴り響き、天の歌声が虚空に起こりました。

 世尊は、このような供養を喜びながらも、次のように仰せられました。

  

 「だが、アーナンダよ、比丘あるいは比丘尼、優婆塞あるいは優婆夷にして、よく法と随法とを実践して住し、まさしく実践し、よく法に随いて行ずる者こそ、最高に如来を崇め、重んじ、敬し、供養し、尊ぶものである。それゆえ、アーナンダよ、ここに〈よく法と随法とを実践して住し、まさしく実践し、よく法に随いて行ずるがよい〉と、そのように、アーナンダよ、学ぶがよいのである」(増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫、p.438)

  

 ここに、釈迦牟尼世尊に対する真の供養が説かれています。

 釈迦牟尼世尊から教えていただいた法を実践し続けることが、釈迦牟尼世尊を崇め、重んじ、敬い、尊ぶ、本当の供養となるのです。

  

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