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法鏡

増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫所収の「大いなる死」より

  

命終後に赴く先

  

 釈迦牟尼世尊は、最後の旅の途上、ナーディカ村のギンジャカーヴァサタ(繁耆迦精舎)に入られました。

 ここで、アーナンダは、釈迦牟尼世尊に、ナーディカ村で亡くなった人の名を一人一人上げて、命終の後はどこに赴くのかと問いました。

 釈迦牟尼世尊は、一人一人についてお答えになりました。

  

 「アーナンダよ、サーラ比丘(びく)は、現生において、よく煩悩を滅尽して、無漏の心解脱(しんげだつ)・慧解脱(えげだつ)を証知し、体得し、具足して住していた。

 アーナンダよ、ナンダー比丘尼(びくに)は、よく五下分結(ごげぶんけつ)を滅尽して化生し、そこに滅して、もはやかの世界より還ることはない」(増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫、p.349)

  

 このようにして、釈迦牟尼世尊は、アーナンダの問いに答えて、人々が死後に赴く先をご説明なさいます。

  

 人と赴く先を表示しておきます。

サーラ比丘 現生において、よく煩悩を滅尽して、無漏の心解脱・慧解脱を証智し、体得し、具足していた。
ナンダー比丘尼 よく五下分結を滅尽して化生し、そこに滅して、もはやかの世界より還ることはない。
スダッタ優婆塞 よく三結を断じ、漸次に貪・瞋・痴も弱まって一来者となり、いま一度この世に帰り来って、苦の終わりを得るであろう。
スジャータ優婆夷 よく三結を断じつくして預流となり、もはや退堕することなく、かならず正覚にいたるであろう。
カクダ優婆塞
カーリンガ優婆塞
ニカタ優婆塞
カティッサバ優婆塞
トゥッタ優婆塞
サントゥッタ優婆塞
バッダ優婆塞
スバッダ優婆塞
五十人以上の優婆塞
よく五下分結を滅尽して化生し、そこに滅して、もはやかの世界より還ることはない。
九十人以上の優婆塞 よく三結を断じ、漸次に貪・瞋・痴も弱まって一来者となり、いま一度この世に帰り来って、苦の終わりを得るであろう。
五百人の優婆塞 よく三結を断じつくして預流となり、もはや退堕することなく、かならず正覚にいたるであろう。

  

 ここに、難しい言葉がいくつかありますので、学んでおきたいと思います。

   比丘 男性の出家修行者
   比丘尼 女性の出家修行者
   優婆塞 男性の在家信仰者
   優婆夷 女性の在家信仰者
   無漏 煩悩を滅し尽くした状態
   心解脱 情的な迷いである貪欲・瞋恚が滅すること
   慧解脱 知的な迷いである愚痴が滅すること
   証知 はっきりと知ること
   五下分結 衆生を下界に結びつける五つの迷い。貪欲・瞋恚・身見・戒禁取・疑
   化生 あるところに忽然と生じること
   三結 身見・戒禁取・疑の三つの迷い
   預流 三結を滅して、教えの流れに入った修行者
   一来 命を終えたのち、もう一度だけ人間に生れて修行し、悟りの境地に到ることのできる修行者
   かの世界 悟りの世界(彼岸)。迷いを滅すれば六道を輪廻するこの世界(此岸)に還ってくることはなくなる

  

  

法鏡

  

 釈迦牟尼世尊は、アーナンダにおっしゃいました。

  

 「まことに、アーナンダよ、人として死することは、稀有のことではない。だが、それぞれが死するとき、わたしのところに来って、この事を問うたならば、アーナンダよ、それはわたしには煩わしい」(同、p.350)

  

 人は、必ず死ぬものです。誰かが死ぬたびに、死後に赴く先を問われたら、釈迦牟尼世尊としては、甚だ煩わしいことでありましょう。

  

 「だから、アーナンダよ、〈法鏡(ほうきょう)〉と名づける法門を説こうと思う。聖なる弟子たちは、それを具足しておれば、もし欲するならば、それぞれ自己について、かく述ぶることを得るであろう。いわく、〈わたしには、地獄は滅し、畜生道は滅し、餓鬼道は滅し、堕地獄・悪趣は滅して、いまや、わたしは預流となり、もはや退堕することなく、かならず正覚にいたるであろう〉と」(同)

  

 「法鏡」という教えを完全に身につければ、いちいち釈迦牟尼世尊に問わなくても、「自分は、この先、地獄・畜生・餓鬼に堕ちることなく、法の流れに入って正覚に到ることができる」と確信することができるのです。

 これは、つまり、「法鏡という教えを身につけなさい。そうすれば、法の流れに入って正覚に到ることができますよ」という、釈迦牟尼世尊の勧めにほかなりません。

  

 「法鏡」とは「法という鏡」です。

 「法という鏡」に自分を映して、足りているところ、足りないところをはっきりと自覚します。そして、足りているところはさらに伸ばし、足りないところは足りるように努力するのです。

  

  

仏陀への帰依

  

 「ここに、アーナンダよ、聖なる弟子があって、仏に対して絶対の浄信を成就する。いわく、〈かの世尊は、応供・正等覚者・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊にまします〉と」(同、p.351)

  

 ここに釈迦牟尼世尊の人徳が数々述べられています。それぞれの意味は、次の通りです。

   応供(おうぐ) 世の供養・尊敬を受けるに値する人
   正等覚者(しょうとうがくしゃ) すべては平等であるという真実を正しく覚った人
   明行足(みょうぎょうそく) 智慧と行いが完全に揃った人
   善逝(ぜんぜい) 智慧の力で煩悩を断じ尽くした人
   世間解(せけんげ) 世間を知り尽くしている人
   無上士(むじょうし) 最高の人
   調御丈夫(じょうごじょうぶ) 人を調御するのが巧みな人
   天人師(てんにんし) 天上界の神々と人間界の人びとを導く人
   仏(ぶつ) 最高の智慧を悟った人、仏陀
   世尊(せそん) 世にも尊い人、尊敬されるべき人

  

 「わが師は、このような徳をそなえた偉大なる人格者である」と仰ぎ見るならば、その教えを押し頂き、大切に実践するでありましょう。

  

  

法への帰依

  

 「また、法に対して絶対の浄信を成就する。いわく、〈法は世尊によりてよく説かれた。それは現に証せられるもの、時をへだてずして果報あるもの、“来り見よ”というべきもの、よく涅槃に導くものにして、かつ、智者のそれぞれ自ら知るべきものである〉と」(同)

  

 ここに、釈迦牟尼世尊の説かれる教えの特質が述べられています。

  

◇法は世尊によりてよく説かれた

 釈迦牟尼世尊によって、真理の教えが、正しく、分かりやすく説かれたということです。

  

◇現に証せられるもの

 教えをその通りに実践すれば、教えの通りの結果がでて、教えの正しさが現実に証明されるということです。

  

◇時をへだてずして果報あるもの

 教えを実践すれば、その時から結果が生じ始めるということです。

 ものごとによっては、結果が目に見えるようになるまでには時間がかかることがありますので、実践と結果が離れているように見えることもありますけれども、実際には、実践したその時から結果が生じ始めているのです。

  

◇“来り見よ”というべきもの

 「ここにきてあなたの目で見てください」とありますが、これは、「あなた自身が実践して体験してください」ということです。自分で教えを実践して、その結果を自分の目で確かめてくださいと言っているわけです。

  

◇よく涅槃に導くもの

 涅槃とは、貪欲・瞋恚・愚痴を滅した境地です。教えを実践すれば、涅槃の境地に到ることができるのです。

  

◇智者のそれぞれ自ら知るべきもの

 「智者」とは、理性的に考え、理性的に実践できる人です。そのような人なら、教えを理解し実践できるのです。

  

 こういう教えだから、信頼して学び、実践して、良い結果を得てくださいと呼びかけているのです。

  

  

僧伽への帰依

  

 「また、僧伽に対して絶対の浄信を成就する。いわく、〈世尊の弟子衆はよく行ずるものである。世尊の弟子衆は正しく行ずる者である。世尊の弟子衆はうやうやしく行ずる者である。すなわち、四双八輩(しそうはっぱい)がそれであって、それは、尊敬に値し、尊重に値し、供養に値し、合掌に値し、世間無上の福田である〉と」(同)

  

 ここに、釈迦牟尼世尊から教えを受けて修行する人々のすがたが述べられています。

  

◇世尊の弟子衆はよく行ずるものである

 釈迦牟尼世尊の弟子たちは、真面目に教えを学び、実践しているということでありましょう。

  

◇世尊の弟子衆は正しく行ずる者である

 釈迦牟尼世尊の弟子たちは、教えを正しく理解して、教えの通りに実践しているということでありましょう。

  

◇世尊の弟子衆はうやうやしく行ずる者である

 釈迦牟尼世尊の弟子たちは、師を尊敬し、法を尊敬し、修行の仲間を尊敬して、礼儀正しく振る舞いながら修行をしているということでありましょう。

  

◇四双八輩

 「四双」とは「須陀おん・斯陀含・阿那含・阿羅漢」の四つの境地です。これに「須陀おん向・斯陀含向・阿那含向・阿羅漢向」の境地の修行者を加えて「八輩」です。

 釈迦牟尼世尊のもとで修行する修行者たちは、これらの境地のどこかにあって、さらに一歩一歩境地を高めているのです。

  

◇尊敬に値し、尊重に値し、供養に値し、合掌に値し、世間無上の福田である

 釈迦牟尼世尊の弟子である修行者たちは、立派な方々ばかりであり、世間の人々を幸福に導く福田であると讃えています。

  

  

戒の実践

  

 「また、聖なる弟子たちは、聖者の愛楽(あいぎょう)するもろもろの戒を成就する。それは、完全にして、混ざりものがなく、純潔にして、曇りなく、自由であり、智者の讃えるところ、もはや執するところなくして、よく三昧(さんまい)にいたらしめるものである」(同)

  

 「戒」とは、「身・口・意の三業に、教えを実践する」ことです。それは「中道=八正道」の実践にほかなりません。

  

◇聖者の愛楽するもろもろの戒を成就する

 聖者が愛楽する戒とあります。真の人間らしい生きかたをしている人は、真理の教えを実践することを楽しんでいるのです。

 釈迦牟尼世尊の弟子たちは、戒をたゆみなく実践して、やがて、真の人間らしい生き方に入り、教えを実践することを楽しむようになるのです。

  

◇完全にして、混ざりものがなく、純潔にして、曇りなく、自由であり

 聖者が愛楽する戒は、完全で、混ざりものがなく、純潔で、曇りがないのです。

 戒は自由であるとあります。戒は、与えられ、共生されるものではなく、主体的に学び実践するものだからです。

  

◇智者の讃えるところ

 戒は、智者すなわち澄み切った理性の持ち主の讃えるところとあります。

 智者は、この戒が、人間としての最高の実践であることを知りつくしているので、戒を讃え、戒を実践する人を讃えるのです。

  

◇もはや執するところなくして、よく三昧にいたらしめる

 戒を完全に実践する修行者は、執着からすっかり離れて、真理に集中するようになります。これは「定」の境地です。「定」が深まれば、「慧」が深まります。

  

  

自分の赴く先

  

 「まことに、アーナンダよ、これが〈法鏡〉と名づける法門であって、よくこれを具足したる聖なる弟子たちは、もし欲するならば、それぞれ自己について、〈わたしには、地獄は滅し、畜生道は滅し、餓鬼道は滅し、堕地獄・悪趣は滅して、いまや、わたしは預流となり、もはや退堕することなく、かならず正覚にいたるであろう〉ということを得るであろう」(同、p.351〜352)

  

 仏陀に帰依し、法に帰依し、僧伽に帰依し、戒を成就する。それが「法鏡」という教えであると釈迦牟尼世尊はおっしゃいます。

 法鏡を学び実践すれば、自分の行き先が分かるのです。

 聖なる弟子たちは、仏陀・法・僧伽・戒に自分を照らして向上への道を歩みます。その行き先には、地獄道・畜生道・餓鬼道などの悪の世界はありません。

 法の流れに入って、後戻りすることなく、かならず最高の智慧を得ることができるのです。

 この確信を得た修行者たちは、ますます、自分を仏陀・法・僧伽・戒に照らしながら修行を続けるでありましょう。

  

  

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