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結果の出る修行道

増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫所収の「大いなる死」より

  

スバッダの問い

  

 釈迦牟尼世尊が、クシナーラーのサーラ林で横になり、ご入滅を前に弟子たちに見守られているという話が、年老いた遊行者スバッダの耳に届きました。

 スバッダは居ても立っても居られなくなり、サーラ林に駆け付けました。そして、アーナンダに釈迦牟尼世尊に会わせてくれと頼みました。しかし、アーナンダは、釈迦牟尼世尊は疲れておられるといって、会わせようとしません。この押し問答に気づいた釈迦牟尼世尊が、アーナンダに、スバッダを通すようにとおっしゃいました。

  

 スバッダは、釈迦牟尼世尊に問いました。

  

 「友ゴータマよ、これらの沙門・婆羅門は、僧伽(そうぎゃ、さんが)を持ち、伽那(かな)を持ち、衆の師となり、世に知られ、名声があり、教祖として多くの人に崇敬せられている。すなわち、プラーナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケイサカンパラ、バクダ・カッチャーヤナ、サンジャヤ・ベーラティプッタ、ニガンタ・ナータプッタのごとくであるが、彼らのすべては、みずからいうがごとく証知しているのであるか、あるいは、すべてが証知していないのであるか、あるいはまた、そのある者は証知しており、また、ある者は証知していないのであろうか」(増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫、p.463)

  

 ここに、六師外道の名前が上げられています。この言葉の中にありますように、当時著名であり、人びとから崇敬されていた思想家たちです。

 スバッダは、この人たちは、自分が説いていることを、知って説いているのだろうか、本当は知らないのだろうかなどと考えたようです。六師外道の教えに、どこか釈然としないものを感じていたのでありましょう。

  

  

修行の結果

  

 これを聞いた釈迦牟尼仏は、スバッダに、そのことはしばらく措いて、私の話を聞きなさい、聞いてよく考えなさいとおっしゃいました。

 スバッダは、うなずきました。

  

 「スバッダよ、どのような法と律においても、聖なる八支の道の知られない処においては、そこには、第一果の沙門は見出されない。そこには、第二果の沙門も見出されない。そこには、第三果の沙門も見出されない。そこには、第四果の沙門も見出されない」(同書、p.464)

  

 古代インドでは、家を捨てて出家し,衣を着て旅をしながら修行する行者を沙門と言いました。沙門は修行によって果を得ようとしているのです。

 釈迦牟尼世尊は、沙門が、聖なる八支の道が知られていないところでいくら修行しても、何の果も得られないとおっしゃいます。

  

 沙門の四つの果は、とは、次のことだと思います。

 第一果=預流果(よるか) :法の流れに入った修行者

 第二果=一来果(いちらいか):一度生まれ変わって修行し、悟りに向かう修行者

 第三果=不還果(ふげんか) :再び凡夫に戻ることなく、悟りに向かう修行者

 第四果=無学果(むがくか) :学ぶべきものは学び尽くし、聖者の境地に入った修行者、阿羅漢果ともいう

 スバッダも、こうした果を求めて修行したのですが、名声高き指導者の教えを学んでも、いかなる果も得られなかったのでありましょう。

  

 釈迦牟尼世尊は、続けます。

  

 「そして、スバッダよ、どのような法と律においても、聖なる八支の道の知られた処においては、そこには、第一果の沙門が見出され、第二果の沙門も見出され、そこには、第三果の沙門も見出され、そこには、第四果の沙門も見出される」(同)

  

 釈迦牟尼世尊は、聖なる八支の道が知られているところで修行すれば、修行者の求める果が得られるとおっしゃいます。

  

 ここまでは、いわば一般論です。釈迦牟尼世尊は、どこでもよい、八支の聖道が説かれているところなら、修行者の求める果が得られるとおっしゃっておられるのです。

 その上で、釈迦牟尼世尊はおっしゃいます。

  

 「しかるに、スバッダよ、わがこの法と律においては、聖なる八支の道は知られている。だから、スバッダよ、ここには、第一果の沙門、ここには、第二果の沙門、また、ここには、第三果の沙門、ここには、第四果の沙門が見出される」(同)

  

 釈迦牟尼世尊による法と律には、聖なる八支の道が説かれています。ですから、釈迦牟尼世尊の法と律を学んだ修行者は、修行者が求める果を得ているのです。

 そして、釈迦牟尼世尊は断じます。

  

 「他の議論は沙門にとって空しい」(同)

  

 「他の議論」とは、聖なる八支の道を説かない議論です。聖なる八支の道を抜きにして、何を説いても、何の役にも立たないのです。聖なる八支の道が説かれていない教えは、空理空論であって無意味なのです。

 釈迦牟尼世尊はおっしゃいます。

  

 「だから、スバッダよ、比丘たちはここに正しく住するがよい。この世界は阿羅漢にとって空しいものではない」(同)

  

 聖なる八支の道が説かれている教えは、必ず修行者に果をもたらします。だから、果を求める修行者は、ここで聖なる八支の道を修習すればよい。修行が空振りに終わることはないよとおっしゃいます。釈迦牟尼世尊は、スバッダに、あなたもここで修業しなさいと勧めておられるのです。

 ここで、釈迦牟尼世尊は、偈を説かれました。

  

 「スバッダよ、われは年二十九にして

 善を追及して出家したり

 スバッダよ、われは出家して以来

 すでに五十有一年を経たり

 理と法のあるところを尋ぬれども

 この他に沙門あることなし

 第二果の沙門もあることなく、第三果の沙門もあることなく、第四果の沙門もあることなし。その他の議論は沙門にとって空しい。だから、スバッダよ、比丘たちはここに正しく住するがよい。この世界は阿羅漢にとって空しいものではない」(同、p.465)

  

 釈迦牟尼世尊は、出家してから、理と法のあるところを尋ねてきたのですが、聖なる八支の道のあるところにだけ、修行者の求める果があったのです。

 このお説法をうかがったスバッダは、小躍りして喜び、願って出家しました。こうして、スバッダは、釈迦牟尼世尊の最後の弟子となったのです。

  

 ここに興味深い数字が出ています。

 釈迦牟尼世尊は29歳で出家なさり、それから51年を経たとおっしゃってます。

 29歳で出家され、35歳で成道され、以来教化活動を続けられて、80歳の今、ご入滅を迎えようとなさっておられるのです。

  

  

現代の宗教

  

 釈迦牟尼世尊のこのお説法から考えれば、現代においても、八支の聖道が詳らかに説かれている宗教なら、第一果、第二果、第三果、第四果を得ることができますから、真の幸せを得る道が開けるに違いありません。

 その宗教が八支の聖道を説かないならば、幸せへの道は閉ざされていますし、説かれていても中途半端であれば、幸せへの道も中途半端でありましょう。

  

  

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