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ブッダ亡きあとの師

増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫所収の「大いなる死」より

  

 ご入滅を前にして、クシナーラーのサーラの双樹の間に横になられた釈迦牟尼世尊は、アーナンダに仰せられました。

  

 「アーナンダよ、あるいは、汝らにかかる思いがあるやも知れない。〈教主のことばは終った。もはや、われらの教主はいない〉と。だが、アーナンダよ、それをかく見てはならない。アーナンダよ、わたしによって説かれ、教えられた法と律とは、我が亡きのちにおける汝らの師である」(増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫、p.471)

  

 釈迦牟尼世尊は、ご自身が入滅なさった後、弟子たちに、次のような迷いが生じるかもしれないと、ご心配なさいました。

 「私たちを教え導いてくださった師は、ふたたび言葉を発することはない。私たちを教え導いてくださる師は、もう、居ないのだ」

  

 釈迦牟尼世尊は、弟子たちに、「私たちを教え導く師が居なくなった」と見てはいけないとおっしゃいます。そして、「アーナンダよ、わたしによって説かれ、教えられた法と律とは、我が亡きのちにおける汝らの師である」とおっしゃいました。

 釈迦牟尼世尊がご入滅されたとはいえ、釈迦牟尼世尊がお説きくださった法と律を学び実践するならば、釈迦牟尼世尊から直接教えをいただいているのと同じなのです。

  

 「釈迦牟尼世尊の説いた法と律を師として修行を続けなさい」というこのお諭しは、その後、代々の仏弟子たちに引き継がれ、およそ2500年をへた現代の仏弟子たちも、釈迦牟尼世尊のお説きになった法と律を師として、修行を続けています。

  

  

法を師とする

  

 「わたし(釈迦牟尼世尊)によって説かれ、教えられた法と律とは、我が亡きのちにおける汝らの師である」とあります。

 このうち「律」が本来の律であれば、その内容は変遷すべきものです。このため、釈迦牟尼世尊ご在世時に説かれた律の多くは、現代の私たちには妥当しなくても仕方がないと考えられます。ここは律の精神を洞察して、そのときそのときの律を法にもとづいて生み出しながら、正しい修行を続けることを考えていけばいいと思います。

 「法」は、「いつでも、どこでも、だれにでも当てはまる普遍の真理」ですから、いつの世でも、何処にいても、師とすることができます。

  

 仏教における「信」は「信頼」です。「法」を信頼するから、釈迦牟尼世尊ご入滅後の師とできるのです。そこで、法を信頼できる根拠を確かめておきましょう。

  • 何はともあれ、私たちが敬愛する大人格者釈迦牟尼世尊がお説きになった法だから、信頼できます。
  • 法の通りに実践すれば、法の通りの結果が現実に得られるので信頼できます。
  • 法を実践すれば、すぐに、現実に、結果がでるので信頼できます。
  • 法を自分で実践して、自分で結果を確かめられるので信頼できます。
  • 法を実践すれば、苦しみ・悩みから脱することができるので信頼できます。
  • 法は理性で理解し、納得できるので信頼できます。

 「法」を信頼して、学び、理解し、実践し、結果を得るということを繰り返すうちに、法に対する理解が深まり、実践も深まり、結果も深まります。そして、法に対する信頼もまた深まります。

 未熟なために法の通りにできない自分があるかもしれません。そのような自分を発見したら、法に照らして修正すればいいのです。

 これを繰り返してきた「法の実践者」は、「法の通りに行なっていればよい」ことを悟ります。法の通りに行なっていれば、あとは法が法の通りの結果を出してくれることが分かってきたからです。

 こうして、法を師として、どこまでも修行を続けることができます。

  

  

釈迦牟尼世尊の最後のことば

  

 釈迦牟尼世尊は、最後に、こう告げられました。

  

 「では、比丘たちよ、汝らに告げよう。〈諸行は壊法である。放逸なることなくして精進せよ〉と。これが如来の最後のことばである」(同、p.474)

  

 このあと釈迦牟尼世尊は禅定に入られ、静かに入滅なさいました。

  

 釈迦牟尼世尊は、ご入滅の三箇月前に、マハーヴァナ(大林)のクータガーラ・サーラー(重閣講堂)で、ヴェーサーリ付近にいる修行者たちを集めて、次のようにおっしゃっておられます。

  

 「では、比丘たちよ、わたしは今、汝らに告げる。諸行は壊法である。放逸なることなくして精進するがよい。久しからずして如来は般涅槃するであろう。いまより三カ月ののちには、如来は般涅槃するであろう」(増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫、p.400)

  

 釈迦牟尼世尊は、ご入滅を前にして、「諸行は壊法である。放逸なることなくして精進するがよい」と、繰り返し説いておられます。

 このお言葉の意味を、少し、考えてみたいと思います。

  

◇諸行は壊法である

 「諸行」は、あらゆるものごとです。釈迦牟尼世尊の教えにおける「ものごと」は、たいていの場合、「自分」と「自分と他の人との間の人間関係」であると考えられます。「自分」も「人間関係」も、刻々と変化していきますから、諸行と言っていると思います。

 「壊法」は、「壊れゆくものごと」という意味になります。ものごとは、ほったらかしておけば、どんどん壊れていくということでありましょう。「自分」も「人間関係」も、ほったらかしておけば、どんどん壊れていくのです。

  

◇放逸

 「放逸(ほういつ)」は、「成すべきと分かっているのに成さず、成してはならないと分かっているのに成す」ことであり、「正しいと分かっているのに行なわず、誤りであると分かっているのに行なう」ことです。「懈怠(けたい)」は、「成すべきことを成さず、成すべきでないことを成す」ことです。ここでの「放逸」は、その両方を含んでいると思います。

  

 「変化し続ける自分」について行なうべきことは、自分が善い変化(進歩・向上)をするための努力です。放逸でありますと、自分に生ずる変化は壊法となり、自分を壊したり、退歩させることになります。

 「変化し続ける人間関係」において行なうべきことは、他の人々との間に善い変化(調和・協調・共生など)を作り出し育てるための努力です。放逸でありますと、人間関係における変化は壊法となり、人間関係を壊したり、希薄にすることになります。

  

◇精進

 「精進」は、「放逸」「懈怠」の反対で、「成すべきことを成し、成してはならないことは成さない」ことです。詳しくは「四正勤」です。

  • まだ生じない悪は、生じないように勤める
  • すでに生じた悪は、滅するように勤める
  • まだ生じない善は、生じるように勤める
  • すでに生じた善は、維持し、伸ばすように勤める

 この場合の悪は、執着、自分本位、劣化した理性などの迷いとそこから生じる誤った行為です。善は、執着がないこと、自分本位がないこと、清らかな理性をもつことなどであり、そこから生じる正しい行為です。

 精進に努めれば、変化し続ける自分は、向上への道を辿ります。また、変化し続ける人間関係は、良好となり、互いの信頼を深めることができます。

  

 経典『大いなる死』に説かれる釈迦牟尼世尊の教えは、一貫して「法の実践」を勧めるという内容でした。そして、最後のお言葉もまた「放逸なることなくして精進せよ」と、法の実践をお勧めくださったのでありました。

  

  

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