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戒を守るー在家信者への教え

増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫所収の「大いなる死」より

  

  

在家信者への説法

  

 高齢の釈迦牟尼世尊は、旅の途中、パータリ村に入られました。パータリ村の在家信者たちは、村の休憩所に釈迦牟尼世尊を招きました。

 釈迦牟尼世尊が休憩所の中央の柱の近くに坐しますと、その後ろに比丘たちがならんで坐し、釈迦牟尼世尊の前に在家信者たちがならんで坐しました。

 釈迦牟尼世尊は、在家信者たちに「戒」に関する教えを説き始めました。

  

  

在家信者の戒

  

 釈迦牟尼世尊は、在家信者にどのような戒を説いたのでしょうか。この経文では、その内容が分かりません。

 原始仏典「スッタニパータ」の394句から398句に、在家の戒が説かれています。(中村 元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、p.81〜82)

 それは次の5項目です。

  生きものを殺さない

  与えられないものを取らない

  淫行をしない

  偽りを言わない

  飲酒をしない

 「戒」とは、人間として、社会人として、行なうべきではないことばかりです。

 パータリ村でも、このようなことが説かれたにちがいありません。

  

  

戒を守らない人

  

 釈迦牟尼世尊は、パータリ村の人々に、語りかけました。

 「居士たちよ、戒を守らない者には、戒を犯したるによって、五つの禍いがある。その五つとはなんであろうか」(増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫、p.331)

 戒を守らない人は、しばしば、自分さえよければいい、他人なんかどうなっても構わないというようなことを考えたり、行なったりしているものです。そういう人には五つの禍いがありますよと、経文は言っています。

  

◇第一の禍い

 「ここに居士たちよ、無戒にして、戒を犯したる者は、放逸(ほういつ)の故をもって、大いなる財を失うにいたる。これが、無戒にして、戒を犯したる者の第一の禍いである」(同)

 「放逸」とは、行なうべきであると分かっているけれど行わないことであり、行なってはならないと分かっているのに行うことです。

 今は仕事をするべきであると分かっていながら仕事をせず、今は遊ぶべきではないと分かっているのに遊んでいたら、財を失うことになるでしょう。

  

◇第二の禍い

 「さらに、また、居士たちよ、無戒にして、戒を犯したる者には、あしき評判がひろまる。これが、無戒にして、戒を犯したる者の第二の禍いである」(同)

 仕事をしないで遊んでばかりいれば、悪い評判も立つでありましょう。

  

◇第三の禍い

 「さらに、また、居士たちよ、無戒にして、戒を犯したる者は、いかなる種類の集まりに入るにしても−−−あるいは、クシャトリヤ(刹帝利)の集まりにせよ、あるいは、婆羅門の集まりにせよ、あるいは、居士の集まりにせよ、あるいはまた、沙門の集まりにしても−−−自信なくして恥らわなければならない。これが、無戒にして、戒を犯したる者の第三の禍いである」(同)

 するべきことをせず、してはならないことをしている人は、人前で堂々と振る舞うことはできないでしょう。気の小さい人ならこそこそとするでしょう。傲慢(ごうまん)な人なら開き直って大きい態度を示すかもしれません。いずれも、真の自信からは程遠い姑息(こそく)なすがたです。

  

◇第四の禍い

 「さらに、また、居士たちよ、無戒にして、戒を犯したる者は、思いまどうて命終(みょうじゅう)しなければならない。これが、無戒にして、戒を犯したる者の第四の禍いである」(同)

 人間として、社会人として、するべきことをせず、してはならないことをしてきた人は、後悔の念が湧いてきたり、死後の不安におびえたりしながら、臨終を迎えることになるのです。

  

◇第五の禍い

 「また、さらに、居士たちよ、無戒にして、戒を犯したる者は、身壊れて死したるのちには、悪生、悪趣、堕処、地獄に生をうける。これが、無戒にして、戒を犯したる者の第五の禍いである」(同)

 人間として、社会人として、するべきことをせず、してはならないことをしてきた人が、死後に向かう世界は、苦悩に満ちているのです。

  

  

戒を守る人

  

 釈迦牟尼世尊は、今度は、戒を守る人の受ける功徳についてお話になります。

 「しかるに、居士たちよ、よく戒にしたがい、戒を行ずる者には五つの功徳がある。その五つとはなんであろうか」(増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫、p.331〜332)

 戒を守る人とは、人間として、社会人として、行なうべきことを行ない、行なってはならないことは行わない人です。

 自分もよく、人も良く、世間にも良いことを行なうことを心掛けている人です。

 このよう人には功徳が生じるのです。

  

◇第一の功徳

 「ここに、居士たちよ、よく戒にしたがい、戒を行ずる者があり、彼は放逸ならざるによって、大いなる財を得る。これが、よく戒にしたがい、戒を行ずる者の第一の功徳である」(増谷文雄編訳『阿含経典3』ちくま学芸文庫、p.332)

 「彼は放逸ならざる」とあります。これは行うべきであると分かればそれを行ない、これは行うべきではないと分かればそれを行なわないのです。

 仕事においても、そのように取り組めば、財をなすにちがいありません。

  

◇第二の功徳

 「さらに、また、居士たちよ、よく戒にしたがい、戒を行ずる者には、善き名声がひろまる。これが、よく戒にしたがい、戒を行ずる者の第二の功徳である」(同)

 「戒」とは、個人的にも、社会人としても、正しく生きることを説いた教えです。その戒にしたがい、戒を行ずる人は、周囲の人々に幸福を与え、喜ばれるにちがいありません。良い評判が立っても不思議はありません。

  

◇第三の功徳

 「さらに、また、居士たちよ、よく戒にしたがい、戒を行ずる者は、いかなる種類の集まりに入るにしても−−−あるいは、クシャトリヤの集まりにせよ、あるいは、婆羅門の集まりにせよ、あるいは、居士の集まりにせよ、あるいはまた、沙門の集まりにしても−−−よく自信をもって、恥じることなくて入るを得る。これが、よく戒にしたがい、戒を行ずる者の第三の功徳である」(同)

 個人としても、社会人としても正しく生きている人は、どのような集会に参加しても、堂々と振る舞うことができます。心に一点の曇りもないからです。

  

◇第四の功徳

 さらに、また、居士たちよ、よく戒にしたがい、戒を行ずる者は、思いまどうことなくして命終することを得る。これが、よく戒にしたがい、戒を行ずる者の第四の功徳である」(同)

 個人としても、社会人としても正しく生きてきた人は、臨終に際しても心乱れることなく、静かに目を閉じるでありましょう。

  

◇第五の功徳

 「また、さらに、居士たちよ、よく戒にしたがい、戒を行ずる者は、身壊れて死したるのちには、善処天界に生をうける。これが、よく戒にしたがい、戒を行ずる者の第五の功徳である」(同)

 個人としても、社会人としても正しく生きてきた人は、次の世でも、同じように生きるにちがいありません。

  

 こうして、釈迦牟尼世尊は、戒を守らない人が受ける禍いと、戒を守る人が受ける功徳について、詳しくお説きになったのです。

  

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